南千住


 数日前、友人でもあり、にっくき碁敵でもあるK君からメールをもらった

 メールのタイトルは「小塚原(こづかっぱら)」で、内容は「南千住に吉田松陰や橋本佐内のお墓がありますよ」との情報提供だった。うれしいねぇ。マイブログ。何人かの人に見ていただいているが、この種の情報提供は大いに歓迎だ。当方、「忙中閑あり」じゃなく、「閑中忙あり」の日々。どこへでも赴くぞ。

 
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回向院近くにある円通寺。幕末の上野戦争で戦った彰義隊266人の遺体を供養した功績で、明治になって上野8門の一つ黒門を授けられた。矢玉の跡も生々しい



さて、小塚原。東京に来て以来、一度は来てみたいと思い続けていたが、訪れるのは今回が初めてだ。

 JR南千住駅に降り立ち、駅前で不法駐輪を取り締まっているおじさんに、「小塚原ってどこですか?」って聞いても首を傾げるだけ。「吉田松陰などのお墓があるって聞いたんですが…?」「さぁ…?」。どうにも要領を得ない。で、おじさん、「そこに回向院があるよ」って教えてくれたが、半分以上聞き流して商店街の方に歩き始めた。

 商店街の店先で商品を並べているおじさんに聞くと、見事な下町言葉で「そう、この一帯が小塚原でぇ」ってな調子。「吉田松陰のお墓は?」には、「そういうの好きなんだけど、知らねえな」。何とも響きがいい。仕方なく聞き流したはずの回向院に向かった。そのときになって、「あれ?回向院?何で回向院がここにもあるんだ?」。これが現実。実に反応が鈍くなっている。昔なら駅前で同じ反応をしていただろう。この間約10分だ。

 ともかく回向院の前に立って驚いた。目の前に吉展地蔵が立っている。私くらいの歳で「吉展(よしのぶ)ちゃん事件」を知らない人はいないだろう。昭和38年(1963年)3月に起こった誘拐殺人事件の被害者である。

 回向院。両国にある回向院の別院だった。両国の本所回向院は明暦3年(1657年)の開創。明暦の大火、いわゆる振袖火事による無縁の焼死者を葬る無縁塚を始まりにしている。その後、埋葬・供養の対象が小伝馬町牢屋敷の刑死者にまで広がったため、この地に別院を設けることになった。

 小塚原は、品川の鈴が森と並ぶ刑場だ。ここ小塚原は主に重罪者を扱ったと聞く。回向院の前を通る道が旧の日光街道だから道行く人の数も多く、見せしめの意味も大いに含まれていたのだろう。回向院から数分のところに「首切り地蔵」があった。その書き物によると、死体は浅く掘られた穴に埋められ、軽く土をかぶせただけだったとか。野犬などが横行していたらしい。実に無残なことである。

 回向院に葬られている人々は、安政の大獄で吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎、梅田源次郎など15人、桜田門事件で金子孫次郎ら22人、坂下門事件で11人、2.26事件で磯辺浅一など。吉田松陰は三軒茶屋近くの松蔭神社に葬られており、また橋本佐内は福井県の実家に改葬されている。

 許せないのは、ねずみ小僧次郎吉だ。本所回向院にもここにもお墓があり、ちゃんと「中村」と苗字まで与えられているにもかかわらず、書き物では義賊などではなかった。大名屋敷を狙ったのは商家と違って警備が手薄だったこと。盗ったお金は、大半を飲み食いや博打に使ったというではないか。信じた俺がバカだった。

# by h-fuku101 | 2009-07-10 07:41 | Comments(0)

歴史の空白


a0120949_7543931.jpg 頭のなかの歴史年表をフラットな気持ちで見てみると、まるでエアーポケットのような空白があることを、ずいぶん前から気づいていた。明治10年(1877年)の西南の役以降、昭和16年(1941年)の太平洋戦争勃発までの64年間だ。戦国史や幕末史とは見事なほどに対を成しているから、もし頭のなかを撮影することができれば、コントラストの効いた、いい写真になることだろうと思っている。

 もちろん、この間に大久保利通が暗殺され、日清・日ロの両戦争が起こり、伊藤博文がハルピンで安重根に暗殺され、その翌年、韓国併合などがあったことは知っているが、それらがほぼ「点」として存在するだけで、「流れ」として把握することがどうしてもできないのだ。

 で、ある時期、新聞のバックナンバーを追い、本を読み、関係資料に目を通すなど、いろいろなことをやってみた。司馬遼太郎翁の「坂の上の雲」に出合ったのもその頃だ。そんな時期、角田房子さんの筆による「閔妃暗殺」を手にした。

 この本、なぜか今は手元にない。8年前に娘と韓国に行ったときに「この本を読んでおけ」と手渡したのかも知れないが、間違っているかも知れない。とにかく記憶も本もない。書店で聞いても「絶版になっている」と聞いた覚えがある。プロローグは確か、筆者が出版社の人と大田区にある池上本門寺を訪れ、力道山のお墓にお参りしたあと、案内されて岡本何某の墓石の前に立つ。a0120949_8251735.jpg筆者は、この人物がどういう人であるか知らなかったが、教えられて、この岡本何某が明治28年(1895年)10月、景福宮で時の大韓帝国王妃:明成大皇后(閔妃)を暗殺するうちの一人だったと知ったという書き出しだった。

 「日韓の歴史認識には政治的な思惑もある」は、以前触れた。角田さんの本を読みつつも「少し色がついているかな」との印象を受けたが、それを差し引いて事実だけを追うことに腐心したことは記憶に新しい。結果、いろいろな努力はしてみたものの、空白の歴史は今も埋まっていない。関心がないことはない。ただ、時代背景が、私の挑戦を阻害しようと心のなかに壁をつくっているんだろうか。そんなことを思いつつ、雨の池上本門寺を後にした。

 もちろん、「集団テレビ」のなかで、外国から来た悪人たちを得意の空手チョップで次々になぎ倒し、悪童たちの心をワクワクさせてくれた力道山に最大限の敬意を払ってきたことは言うまでもない。

 

  

# by h-fuku101 | 2009-07-09 07:57 | Comments(0)

朝顔市


 いよいよ朝顔の季節がやってきた。

a0120949_862980.jpg 家の近くにある小学校の生徒たちが毎年、丹精を込めて朝顔を育てており、今年もきれいな花を咲かせてくれた。その写真を撮らせてもらおうと、実は一昨日、校門から出てきた女性に「ここの先生ですか?」って聞いたら、「いえ、違います」との返事。「インターホーンを押してまで…」とのちょっとした迷い(?)がその翌日、入谷まで足を運ぶきっかけになってしまった。実は、このインターホーンには悪童時代、近所の呼び鈴を押しては逃げるという後ろめたい気持ちが今になっても付きまとっているだけに、押すに押せないのだ。

 入谷朝顔まつりは毎年、7月6~8日の3日間、入谷鬼子母神を中心とする言問通り一帯で開かれている。朝5時から夜11時までというから、いくら「朝、花を開くから」といっても驚きだ。

 さて、朝顔。原産地は熱帯アジア、熱帯アメリカ。ヒルガオ科の一年草で、花言葉は愛情のきずな、はかない恋、愛着、固い約束だとか。はかない恋と固い約束?おいおい何か矛盾してないか?1100年以上も前の奈良時代、遣唐使によってもたらされたというから歴史は古い。当時は、その種が漢方薬の下剤として珍重され、観賞用となったのは江戸時代になってからという。

a0120949_874425.jpg 入谷朝顔まつりの起源が面白い。江戸時代末期、御徒町にいた下級武士:御徒目付(おんかちめつけ)の間で盛んに栽培され、それが幕府崩壊後、入谷の植木屋10軒の手に渡った。後に木戸銭などを取って人々に見せるようになったという。

 ところで入谷。今の鶯谷あたりは昔、根岸の里と呼ばれていた。上野の山の裏手にあたり、「剣客商売」に登場する佐々木三冬、後の秋山三冬も爺やとともにここに住んでいた。大商人の隠宅などが多くあり、ここの鶯の鳴声はとりわけ江戸の人たちには珍重されたとか。正岡子規も晩年、病に苦しみつつも、この地で過ごしている。そういえば、入谷鬼子母神に「入谷から出る朝顔の車哉」という子規の句が、當山日東の句「朝顔も入谷へ三日里帰る」とともに残されていたなぁ。今は昔。当時の面影は行き交う車の多さや立ち並ぶビルからは想像すらできない。

 鶯谷駅に戻る道で長年仕事を共にしてきたK嬢とバッタリ。実は彼女、ゴルフ仲間でもある。今は彼女の職場は上野にあるが、「運動不足解消のため、一駅手前で降りて歩いてるんです」とのこと。私はあとで「あっ、ゴルフに備えて頑張ってるな」と思っていた。みなさん、涙ぐましい努力を見えないところでしてるんですなぁ。

# by h-fuku101 | 2009-07-08 08:08 | Comments(0)

大阪、まか不思議な国


 ひと口に大阪と言っても、昔は4つに分かれていた。摂津、なにわ、河内、泉州の国だ。摂津は北大阪、なにわは今の市内、河内は市内の東部、泉州は南。言葉も気質もそれぞれ微妙に違う。

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 摂津の人たちは「自分たちは上品だ」と密かに思っているらしい。なにわは、法善寺横丁に代表されるいとはん、こいさんの世界。河内は一時、「八尾の浅吉」で有名になったが、ガラが悪い言葉の代名詞に。泉州は近年、岸和田のだんじりで有名になったが、言葉は東京に住む人たちにはほとんど馴染みがない。

 私のふるさとは河内。ガラが悪いと言われた河内弁を弁護する訳ではないが、泉州言葉の悪さは類を見ない。司馬遼太郎翁の「街道をいく」では、「そもそも高知と和歌山には敬語がない」と紹介されていたが、泉州は、この和歌山の流れを見事に酌んでいる。

 和歌山で思い出した。私の友人が和歌山に配属されたとき、その子供が地元の小学校に編入された。先生曰く「今日、〇〇君が東京から転校してきました。一度本を読んでもらいましょう」。で、彼が本を読むと全員が驚いた。「先生、テープといっしょやんけ」。どうやら国語の授業はテープで朗読を聴かせていたらしい。和歌山出身のM君、事実だから許してね。

a0120949_7251149.jpg 大阪人と東京人。面白い話しがある。子供に刀を持たせて通りすがりの人に斬りかからせると、東京人の多くは横目で見て素通りする。大阪人は必ずと言っていいほど傘を持っていれば立ち合うし、なければ「やられた~」と反応する。軽自動車の荷台にリンゴを満載して「ご自由にお持ちください」と書いておく。東京人は一つ二つ持ち去るが、大阪人は、一人が荷台の上にあがり「おばちゃん、これ持って行き!」と世話を焼く。

 大阪で試しに道を聞いてみるといい。面白いことが分かる。「ここに行くにはどう行けばいいですか?」に、「この通りをピュ~とまっすぐ行きまっしゃろ。そしたら八百屋にド~ンとぶつかるから、ぶつかったらピャ~と右に曲がりまんねん。それでチョッチョッチョッと行ったら目の前にありますわ」てな具合。やたらと「音」が出てくる。当の大阪人から言わせると、この「音」がないとどうにもリズムが取れないのである。

 大阪。このまか不思議な国。書きたいことは山ほどある。ただ、この国に帰り、何の気兼ねもなく地元の言葉で話しをすると胸のつかえまで取れるから、ほんまおかしなもんや。

 
 

# by h-fuku101 | 2009-07-06 07:32 | Comments(0)

多摩よこやまの道


a0120949_8105664.jpg 多摩丘陵は、武蔵の国府(府中)から眺めると横に長く連なる山々で、夕暮れ時にシルエットとして浮かぶその美しい姿は、万葉時代の人々から「多摩のよこやま」「眉(まゆ)引き山」などと呼ばれていたらしい。

 ここは、南に町田、川崎など相模の国、北に多摩市、八王子市など武蔵の国が望め、いにしえから政治、軍事、文化、産業、社寺参詣の要路として多くの人々が行き交った。現に、東西に伸びる尾根道と交差するように、南北には鎌倉古道や奥州古道などの痕跡が各所に残されている。以前、テレビでも紹介されていて、道中にはつり橋も見られるというので雨の中、出掛けた。

 小田急唐木田駅まで乗り継いで約30分。駅員さんに「つり橋があるハイキング・コースはどちらですか?」と尋ねたら、「向こうに山が二つ見えるでしょ。あの右側の山に入り口がありますよ」と親切に教えてくれた。

 で、お山入り。いつもは裏山散歩で山道には慣れているつもりだが、今日は雨。しばらくは登り道で、ぬかるむ道に足をとられ、滑って転ぶことにだけに神経が集中している。だが、人ひとり通らない山道とひっきりなしに聴こえる鳥の声に満足していた。約1kmの登りが終わってホッとした途端、何と左手がゴルフ場だ。ちょうど見下ろす位置にティーグランドがあり、「ナイスショット!」と言うキャディーさんの声。そして右手は畑でその向こうには人家も。ここで少し興ざめた。

 なおも歩き続けると景色が何か変。右はフェアウェーでその先にはピンフラッグ…??? ってことは? 気が付いたら左側の目の前がティーグランドだった。「おいおい、この道、ゴルフコースを横切ってるよ」。そう言えば、ここに来るまでに一般道とカート道とが交差するところが何ヶ所かあったなぁ。それにつり橋も鉄橋だったわい。雨のせいもあったかも知れないが、いにしえの道散歩にかけた懐古的、郷愁的な想いは、ここにきて確実に冷めてしまった。

a0120949_812119.jpg 中学3年のとき、登山部に所属していて、多武峰(とうのみね)、大峯山、伊吹山、比叡山、比良山、金剛山、六甲山、摩耶山、御在所岳など、近畿2府4県の主だった山々は踏破しているが、そのときに一番嫌だったのは苦労して登った山の上を車が走っていることだった。その感覚が本当に久しぶりによみがえった。「いい運動をしたと思えばいいや」と気分を切り替えた次第である。 

# by h-fuku101 | 2009-07-05 08:26 | Comments(0)