らしさ

a0120949_10144523.jpg アイデンティティ(Identity)。この言葉を初めて耳にしたのは25~6歳のとき。当時、付き合っていたアメリカ人:ウォーカー氏と戎橋筋を歩いていたときに彼の口から出た。辞書は持ち合わせていないし、彼も日本語で説明できるほど堪能ではないので、そのときははっきりしないままに別れた。

 辞書では、①同一性、一致している。
        ②同一人、本人。
        ③独自性、主体性、本性ーーなど。

 私はもっぱら、③の意味を「らしさ」と訳している。

 一人の人間に「らしさ」を加えると、「その人らしさ」、つまり個性ということになる。これは大切にしたい。

 いろいろなお付き合いを重ねてきたが、男と女の考え方の根源は、言葉ではどうにも説明できないが、どうも違うようである。体力的にははっきりと男女間に違いがあり、性的にはどんなに頑張っても男に子供を産む能力はない。

 近年、「男らしさ」「女らしさ」が実に曖昧になっている。それぞれが生まれ持った違いが厳然とあるはずなのに、日常の言葉や行動、精神構造までがその区別を曖昧なものにしている。

 私自身、男女平等社会の実現や女性の社会進出の促進に努めてきた一人なので、女性が社会の中でハツラツと活躍する姿は見ていて気持ちがいいし、応援もしたい。「女性は家にいて家事、炊事をしろ」などと古めかしい役割分担論を持ち出す気などさらさらない。

 さて、今の「乱れ(?)」は男女の「らしさ」の乱れなのか、それとも人間が本来持ち、発揮しなければならない人への思いやりや優しさ、自分自身への恥じらいや慎みといった精神の欠如なのか…。分からない。そういえば、司馬遼太郎氏だか池波正太郎氏だかの著書に「人間は情智あいまって人となる。情の裏打ちのない智は…」(?=忘れた。30巻以上もページを繰ったが出てこない)があったなぁ。

 おやじの独り言では、愚痴だけは避けようと思っている。しかし、車内での通話、化粧、音漏れはもちろん、スカートで足をビャーと開いた自転車乗り、ジーパンで屈んだときのパンチラならぬベロー出し…。枚挙にいとまがない。昔は、女性は脇の下を見せないために吊革すら持たなかった。臍だしルックなんてとんでもない。エスカレータで尻を隠すなら、そんな短いものはいて来るな!
男と女の美しさはもっと別のところにある。

 

 

 

 

 

 

# by h-fuku101 | 2009-06-20 10:15 | Comments(0)

私の中の3巨匠

 「本は読まない!」というこだわりは30歳過ぎまで続いた。

a0120949_8575586.jpg それまでは体育会系一辺倒のアウトドア生活派。ウェスト69、胸囲104、太もも82、握力74、背筋150、100㍍走12.6…。そう言えば、銭湯に行けば(家風呂なんてなかった。「あっ、銭湯出入り禁止事件も紹介しないといけないかなぁ?」)、近所のおじさんから「兄ちゃんみたいな身体の男に娘をやりたい」と言われたり、浴槽に腰を掛けてたら「お兄ちゃん、いい身体してるね」と身体をくっつけてきた、少し趣味が違うお兄ちゃんもいたなぁ。せっかく温まった身体なのに鳥肌が立ったわい。もちろん今では見る陰の一片すらないが…。

 (主題からずれてるよ~。今日は本のお話…。)

 本を読むようになったのは33歳から。その歳に上京し、仕事の関係から止むにやまれずという切羽詰まった状況に追い込まれたのだ。いきなりの経済書から時事評論、時代考察本等々。「勉強しない体質」の改善を強要されたようなものだ。経済書等から本を読む習慣を身につけたっていうのも珍しいかも知れない。

 で、とにかく活字に慣れ始めたとき、「少し頭を休めよう」と手にしたのが藤沢周平氏の時代小説だった。だが、ただストーリーを追っているだけ。ある日、仕事でかかわった作家から「どんな本を読んでます?」って聞かれ、「今は藤沢さんです」「シブいですねぇ。あの人の作品は、特に、光と影の表現が素晴らしいんですよね」。この言葉に斧で頭を殴られたようなショックを受けた。藤沢周平氏は、もちろん作品自身のすばらしさはあるが、私に読書習慣を定着させ、小説の読み方を教えてくれた、私の中の巨匠の一人である。

 約7年前。山形県鶴岡市出身の友人I君のご母堂が他界され、その葬儀に参列した。葬儀前日、市内の湯田川温泉に一泊したが、たまたま入った旅館の女将が藤沢氏の教え子だった。ロビーには写真や小説が陳列され、より親しみが深くなった次第である。

 もう一人の巨匠は司馬遼太郎氏。氏の本姓は私と同じで、名前は定一。東大阪市に記念館があるが、その記念館に行く途中に我がF校がある。氏のジャンルは歴史小説。もちろんそれらの愛読者の一人であるが、氏の取材旅行をまとめた「街道をいく」は手放したくないシリーズである。

 三人目の巨匠は池波正太郎氏。小説はもちろん、エッセィ集にも目を通している。浅草にある記念館にもたびたび足を運んだものだ。氏は、決してと言っていいほど作品中で、直接的な表現で人生訓を述べたりはしていないが、読後、全体を通して人の生き方、考え方、人と人との接し方、人間の強さや弱さなどを教えてくれる。

どうしてもっと早く本を読まなかったんだろう?!

 

ご近所紹介 Vol.2

# by h-fuku101 | 2009-06-18 09:42 | Comments(0)

墓参そして

a0120949_619218.jpg 12日から3日間、母親の墓参のため1年ぶりに帰阪した。正確には、5月初めに大阪に出張しているから、1年ぶりの帰阪というのは正しくない。

 母親は、生駒の山を間近に望み、花園ラグビー場が目の前にある墓地に長兄、次兄とともに眠っている。

 平成15年4月、北陸出張中に「長姉死去」の報で急遽、金沢から帰阪したが、母親はその2か月後の6月、長姉の死を知らないままに幽明境を異にした。長姉逝去のことは残された兄姉の間で「ショックを受けるといけないから、母親には知らせないでおこう」と申し合わせていたので、葬儀後、私一人で入院している母親を見舞った際、「何やお前、仕事は? まじめにやらな あかんで」と言われたときには、「大丈夫や」と答えつつも、話しの接ぎ穂に困った。2か月後に天国に旅立った訳だが、向こうで長姉と「お前、何でここにおるんや」と話し合いつつも、「あっ、あいつ、あの日、黙っとったんやな。薄情な奴や」と恨んでいるかも知れない。

 母親は明治40年9月生まれ。日露戦争後2年を経て福井県に誕生しているが、世は戦勝気分のまま軍隊が政治的勢力を伸ばし、第一次世界大戦、2.26事件、支那事変、第二次世界大戦へと続く混乱の時代。「産めよ増やせよ」の国策のもと、4男4女をもうけた。

 とにかく筆まめな人だった。75歳だか80歳になったとき、「郵便局から郵便書簡をくれるようになった」と言ってはせっせと手紙を送ってくれ、郵便書簡がなくなると、取り置いた裏が白地のチラシなどを便箋代わりにしていた。封筒までが手製だったのには恐れ入った。決して吝嗇(りんしょく)ではなく、自らの生活には明治、大正、昭和の時代を通して育まれた倹約思想が浸透していたのだろう。飽食に馴らされた現代人にはとてもとても真似のできないことではある。

 

平城宮

# by h-fuku101 | 2009-06-17 06:01 | Comments(0)

恥ずかしき半生

 a0120949_854095.jpg想えば、中学生後期から高校生時代は素直な、というより自分の考えを持たず、人の言動で自らの生き方を決めているような人間だった。

 この性格形成の原因追求には自分自身大きな関心があるのだが、それはまたのことにしよう。

 どうやら両親は「神童の素質(?)」を持った私に、口にこそ出さなかったが、大きな期待を寄せていたようだ。ところが、当の本人はまるでやる気なし。小学生時代、毎年、学期末にその期間中の成績を知らせる通信簿が出されるが、いつも「やれば出来るのに残念です」と書かれていた。

 そんな男が中学3年になって俄然、頑張り出した。ほぼ毎日ドリルを買って来てはその日のうちにやり終え、テストのたびに成績は上昇し、クラス内の順位もうなぎ登り。しかし、もともと「勉強をする体質」ではないから高校入試を前に身体を壊し、後期にはほとんど登校することすら出来なくなった。クラス仲間からは「あいつはずるい奴だ。学校を休んで入試勉強をやってる」と散々、誤解されたものだ。担任が「とにかく一度登校しろ」と言うので、兄貴引率のもと学校に向かったが、車中では学帽に嘔吐の連続だった。やっとたどり着いた私のやせ衰えた顔を見て「すまん。誤解してた」と謝ってくれたクラス仲間もいたなぁ。

 a0120949_856311.jpgさて、ここからが本題。担任が、「お前、K校を受験しろ」と、実際に入学したF校よりもランクが上の学校を指名したが、「いえ先生、F校にします」と押し切った。その理由は、すぐ上の兄貴から「お前、俺と同じF校に入り、入ったらサッカー部に入れ。」と進路指導されていたからである。当時、兄貴は学校の先生以上に、絶対的な存在であったらしい。そしてめでたく合格。発表の日にサッカー部に入部したのである。多くの入部者は入学式の日に所属クラブを決めるので、私はしばらくの間、同期生から先輩と見られていた。なお、兄貴とクラブの先輩との間では、私の受験、入学前に神戸屋のパン一つで身売り交渉が行われていたらしい。

 ある日、前出の兄がF校長の言葉を私に伝えた。それは「学生は、授業内容が分からなければいけないが、分かっていればテストでいい点数を取ることはない。それより身体を鍛えておけ」と言うものだった。この言葉は、もともと「勉強する体質」でない私には天の声に聞こえた。当時、テストは前期と後期の2回行われており、その平均で40点以上あれば進級、卒業ができた。天の声を実践しようと決意した私は、前期は苦手科目だけに集中し、得意科目はテスト用紙に名前だけを書き、わずか開始1分にして教室を後にしていたのである。そう言えば、テスト期間中の鞄の中にはなぜか下駄が入っていたなぁ(当時からおやじ顔の私は、襟の校章をはずし、胸元を開け、下駄を履くと立派な大学生になる、と思ってた。行き先はいつもパチンコ屋)。

 別の日、確か、2時限目の授業が終わり、3時限目の国語が始まる前のことだった。クラスの仲間に代返を依頼し、意気揚々と部室で早弁をしていたら担任のF先生が顔を出した。「おい、俺にも喰わせろ」。「え~よ」「うまいなぁ」「先生、半分残してくれよ」…。その後、F担任は「お前、入学したときの成績良かったな」「……?」「お前、本読まんやろ」「読まん」「お前、IQでは数字は飛びぬけてるけど、文章力は全然や。これから本を読め」。私の返事を聞いてF担任もさじを投げたかも知れない。「先生、そんな時間あったらグランド走ってるわい」…。このF担任、なぜか私を可愛がってくれ、卒業式の日の夜、ともに赤倉行きのスキー列車に乗り込むことになるのである。

 ※今日は、デジカメ一眼レフカメラ教室の日です。ここまで書いて時間切れになりました。
 ※明日12日から14日までは大阪、15日、16日は仙台に行きます。マイブログはしばらくお休みです。

# by h-fuku101 | 2009-06-11 08:56 | Comments(0)

囲碁そして惨敗

a0120949_7221010.jpg 昨日は楽しみな囲碁教室。毎月第1土曜日と第2、第4火曜日がその日になっている。

 教室の名前は「洗心金川会」。会のスタートと同時に参加しているが、さて、何年になるのだろう? もともとは「SKクラブ」として始まった。その後、先生が日本棋院の理事に就任したため、やむなく取りやめになってしまった。

 この教室の特徴は、強い人は県代表クラスから初心者までが同居していること。また、93歳の長老から小学生までと、幅広い年齢層でもある。女性がメンバーの半数近くを占めているというのも特徴の1つだろう。 うれしいのは、高段者が初心者や低級者にやさしく教える風潮があること。毎回、教室には会員が持ち寄ったおやつが並び、対局後は近くの居酒屋に誘い合って出掛ける、実に和気あいあいとした雰囲気である。囲碁は、結局は勝敗を競うゲームだから、教室によっては勝ち負けにこだわり、ギスギスした雰囲気のところもあるが、ここにはそれがない。「マナー重視で、囲碁を楽しみながら棋力アップすることを目的とする集いです」との先生の想いが浸透しているのだろう。

 さて、対局。

 昨日は、我が好敵手のK君がわざわざ会社を休んで参加してくれた。先生に「1局目はK君と組み合わせてね」とお願いしてあったので早速対局。終盤、劣勢を意識したK君が勝負手を放ってきた。計算上は私の完勝a0120949_7251355.jpg譜。「わずかな石はどうぞお取りください」と、大人の態度で臨めば終わっていたのに…。まだ若いねぇ。最終局も「もう一回やろうか」とK君と対局。この碁は完敗した。結局この日は3連敗。疲れがドッと出た。

 K君とは「お互い切磋琢磨しながら強くなっていこう」と日ごろから話し合っている間柄。こうも見事にやられるとは…。K君よ、あまり強いと友だち失うよ。

 囲碁との出会いは約20年前だった。当時付き合っていたプロ棋士から「付き合う以上碁を覚えてくださいよ」のひと言で始めた。たまたま会社の上司に囲碁の強い人がいたので、石をたくさん置いて連日、指導を受けた。今になって、あの日に囲碁を勧めてくれたプロ棋士に心から感謝したい。こんなに面白いゲームはない!

よもやま

# by h-fuku101 | 2009-06-10 07:26 | Comments(0)