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円筒分水

 川崎と立川を約1時間で結ぶJR南武線。その途中に「久地(くじ)」という駅がある。
 その久地駅から徒歩約10分のところに「久地円筒分水」がある。訪れた日は修復工事中のため近寄ることはできなかった。

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 この円筒分水が造られたのは昭和16年(1941年)。
 このあたりは、今でこそ住宅やマンションが立ち並ぶ住宅街の様相を呈しているが、それまでは一面の田園地帯であったに違いない。

 さて、この円筒分水。送られてくる水の量が変わっても、その分水比を一定にすることで供給する水の量も一定にしようという優れものだ。
 
 まず、内側に「整水壁」という中心となる円形を設け、その周りを同じような円形が取り囲んでいる。一つの方向から送られてきた水は整水壁から吹き上げて周りを囲む円形に流れ込み、そこからあふれた水が一方向の川に送られる仕組みになっている。周りの円形は区切られているから他の川に流れ込むことはない。平成10年(1998年)6月9日に国の有形文化財になった。稲作にとって水は命。比率は農家の数なども考慮されたことだろう。

円筒分水_a0120949_6484236.jpg この円筒分水に水を供給するのが多摩川の支流、二ヶ領用水。完成は慶長16年(1611年)だという。郷土歴史書によると、天正18年(1590年)に多摩川が大洪水を起こして水の流れを変えてしまった。そのため徳川家康の家臣:小泉次太夫(なぜか苗字が気に入らん!)が用水開発を家康に進言し、以来、14年の歳月を費やして完成させている。

 この二ヶ領用水。当時は農業用水だったが、今ではそのほか、都市生活に潤いを与える環境用水としての役割も果たしてくれている。

 さて、久地円筒分水と二ヶ領用水。毎日が多忙(?)なため未だ資料や文献などに目を通していないが、これらが造られた年代が面白い。

 まず、円筒分水。昭和16年(1941年)と言えばわが国が太平洋戦争に突入していった年だ。一方、二ヶ領用水の開発を進言したのは関が原の戦い(1600年)の3年前。その戦いの最中も工事が進められている。

 戦争には兵站(へいたん=戦場の後方にあって、作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる機関)が不可欠だが、この二つの工事が果たしてその意味・役割を持っていたのか。あるいは、行政の動きはよそに、したたかに生き抜く人々の想いがこれらを成し遂げたのか。興味は尽きない。

by h-fuku101 | 2009-07-01 06:50 | Comments(0)

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